ダンテス・ダイジ断片





一般に臨済宗では、
身息心の調和を重視した坐禅を修行している。
そして、公案によって人為的に大疑団を起こそうとする。
しかし、大疑団は、いかなる人為によっても作り出すことはできない。
公案が疑団を作り出すことはあり得ない。
大疑団が、おのずから公案として結晶化するのだ。
人生と存在全体に対する内発的な根本的疑問―これが大疑団である。

人生と存在への根本疑問なしで、公案禅を修行するのは、
愚かさ以外の何ものでもない。
公案とは、あなたから自発的絶望として出てくるものであって、
いかなる覚者も、あなたに公案を作り出してあげることはできない。

本質的な問いには、解答というものはない。
にもかかわらず、あなたは、問うことをやめてはいけない。
少なくとも、問いも答えも、あなたも世界も、消え果てるまでは....

現在、臨済宗でおこなわれている、いわゆる公案禅とは、
単なる丹田呼吸法とどっこいの心身医学的なものにすぎない。
だからこそ公案体系などという役立たずの形式至上主義があるわけだ。

大疑団なしで公案禅をやるぐらいなら、健康法としての丹田禅の方が、はるかにまともだ。
丹田禅とは、仙道などの錬丹法や丹田呼吸法を、より強烈にしたものである。


その道が、
君自身の道であるかどうかは、
その道の途上においても、
君が倒れても悔いがないこと、
それが君の心ある道だ。



正しい師とは、文句なく、その人物に全面信頼や愛情を持てるということであり、
したがって、このさい、その正しい師が、本当に悟りを開いているかいないかなぞ
二義的問題にすぎない。

正師の発見は、あなたの全身全霊的直観による。
その全身全霊的直観が、全面的信頼を自発自起せしめる。

あなたに、正師との出会いによっても、全面信頼が生起しないとしたら、
あなたは、あなたの人生というドロ沼を、もっと徹底的に真摯に生きてみねばならない。

           ダンテス・ダイジ『アメジスト・タブレット・プロローグ』より






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